コラム◎ 祖父・山本作兵衛と私 緒方惠美

連載二回 祖父の想い、私の思い

私の伝えたいことは、実は、祖父を描いた人のことでも祖父を撮った人のことでもない。祖父が、その絵をどう保管していたかだ。

諸藤さんが祖父を描いた葦ペン画は、賞状などを入れて飾るふつうの額縁に入ってあった。二〇一一年初夏、ちょうど去年の今頃、田川市文字山の実家の片づけをしていたらこれが出てきた。それを我が家の床の間に置いていた。ある日ふとその絵を見ると、額と絵のほんの一〜二ミリの隙間から何だか赤い色が見える。なんだろうと思って初めて額を開けてみて息を呑んだ。
絵の下敷きには古い新聞紙。一枚まるまる破らずにきれいに額に沿って折り曲げて下敷きにしてある。その新聞紙には赤のマジックで何度も何度も同じことが祖父の字で書いてある。「西日本新聞」が紙面全体を使って出した木曽重義氏の訃報だ。赤マジックの字は亡くなった日付と肝硬変という祖父の文字。昭和五十三年六月二十八日付けの新聞。額縁の裏には「昭和四十九年三月九日巨知大冶氏贈 ガクフチ 作兵衛」と、これも祖父の字である。二つのビスと針金を曲げて額を吊るす金具も祖父の手製。中の絵は「80.2.16」と諸藤さんが表の絵の横にローマ字でサイン。その横に祖父の字でボールペンで「諸藤浩之先生」と書いてある。
木曽重義氏は、私の関わる範囲でいうと、九州の炭坑主を代表するような方で、国とのつながりも強かったかたのようだ。祖父の墨画を非売本として初めて世に出す中核になったかたのようだ。当時の経済界の中では多分大御所であったのだろうと思う。そのかたの訃報を伝える新聞を祖父は忘れないように大切にとってあった。赤く添え書きまで入れて。
これに初めて気付いた頃、ちょうど私は原稿を書いていた。その原稿は祖父のことを書いた原稿。生まれて初めて出版される活字になって、たった一ページなのにすごくうれしかった。しかも書店に並ぶなんて。祖父が五年かけて描いた墨画。孫や子にだけ残そうとした画が、人に認められて本になった時の祖父の気持ちに思いをはせる。嬉しかったに違いない。本になれば、あとあとに残るから。
祖父の初めての画集を作るのに尽力されたかたの訃報の新聞、それとMOW(ユネスコ世界記憶遺産)になる前に、福岡県立大学にある祖父最晩年の日記に中の文字を私は読んだ。その中の祖父の言葉が頭にこびりつく。
「上野氏へ恩報じはとても出来ぬが……」
上野氏とは上野英信氏。祖父没後二年で亡くなられた。
恩を忘れたらいけない。と祖父は語らずとも、私の伝えてくれる。
祖父が亡くなり今年で二十八年、私が二十三歳の時だった。生きていたら一二〇歳の祖父。私は五十一歳になった。
身内は皆、祖父のことが大好き、絵を描かなくても多分大好き。だから祖父が恩報じと称する、今の祖父のことで動かれる人々に対して礼を尽くしなさいと言ってくれていることを肝に銘じて、祖父だったらどう思うか、祖父だったらどうするかといつも考えておこうと思う。
その中で、祖父が生きていたら、こんなことは嫌いなのではないかしらと思うことも出てくる。たくさんたくさん出てくる。私=祖父ではないから、私の意見は通らないのかもしれないけれど、祖父の意志を継ぐということはどういうことなのか、祖父を知らない人々に、祖父の残した作品を通して、何かを感じてほしい そんなことを、多分日がな一日一番多く考えているのは私かもしれない、と、思う。というのも、同居する父の性格、兄弟のこと、親戚のこと、皆それぞれの生き方や考え方は、まぎれもなく祖父母の過ぎしこの方の生き方が元になっているように思うからだ。
祖父は、きわめて客観的に画文を描いている。私も祖父もそこから「何を感じてほしい」などと、統制的なことは微塵も考えない。実際、祖父も父も、誰かに強制されることや強制的なことを強いられることを嫌う。私もそう。
でも、納得いくもの、正義、長く永く培いたいこと、失ってはいけない思い、本物とは何かをいつも考えて生きている。表面的のものや体裁、権威、肩書きなど揺れ動くものには慎重だ。なぜか。それは、そんなものに価値はない見たくに祖父が教えてくれるから。権威や肩書き、それを持つ人々が幸せとは限らないということを教えてくれる。それを持つ人々は、庶民の敵であってはならないはず。
祖父母の思いを、ないがしろにすることは、したくない。
祖父は生前、最後の最後まで上野英信氏を信頼していた。祖母もそうだ。それを物語ることがある。祖父が田川市文字山の父の家で祖母と母に看取られなくなったすぐあと、むくろのまま、長年住み慣れた弓削田の終の棲家に運ばれた。その祖父の枕元で祖母タツノは言った。
「この絵ば、上野先生にもっとってもらわんといかんですもんな」
木の箱に入った初期の墨画二九九点を祖母は抱えてそのまま上野英信氏に託したのだ。そこには父の兄も父も居た。でも、それは当然のように皆納得していたのだった。身内以上に信頼していたのだ。反対するものもいない。
なぜ託したか。絵が死なないから。祖父の意思、伝えたいという想いを上野先生なら繋げていくことが出来ると祖父も身内も思ったからだと思う。
上野氏の死後、永末十四雄氏と佐々木哲哉氏が父のところを訪れ、墨画を田川市に保管させてほしいと来て、父は上野晴子さんと息子の上野朱さんのもとへ、墨画を貰い受けにいった。
保存のための保存は、今もその当時も変わっていない。保存の専門家に時間とお金をかけて調査依頼し、それをまた保存の名目で蔵に収める。おかしい。
祖父母の思いとかけ離れた、記憶遺産というものに対する配慮がなされているような現状に、私は不安や不満がつのる。
でも、多分、祖父はニコニコ笑ってお酒を飲んで、行く末を案じるでもなく、泰然自若としているのではないかと思う。
私は、今、山本家に関わる人々に、礼を尽くして行けたらいいと思う。そして、変わらない心で祖父を思う人々を大切にしていきたいと思う。

2012年6月7日
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