元寇後の城郭都市博多
著者 佐藤 鉄太郎
中世の博多の実像を根底から改めた研究。精緻な実証によって、博多は元寇後、碁盤の目の形に都市計画され、元寇防塁の後に堀と土塁を備え、寺社を戦略的に配置した城郭都市で、鎌倉、京都に並ぶ重要都市として構築されていることを明らかにする。「鎌倉に於ける幕府の侍所、京都に於ける六波羅探題の侍所と同様に、博多に於ける鎮西探題に侍所が設置されていたことを検証できたことは、博多が鎌倉幕府によって政権の所在地である京都と並ぶ重要都市と見なされて構築されていた大都市であったことを証明する。(略)鎌倉幕府は元寇に際して博多湾岸に元寇防塁を構築して、それだけで防衛として十分な対処であるとは決して考えてはいなかったことは当然である。そうしたことから博多の防衛のために元寇防塁の後ろに第二防衛線として、後に大水道と呼ばれた土塁を伴った堀を構築し、南側には後世に房州堀と呼ばれた土塁を伴った堀を構築していたのである。このような土木工事の例に見られるように、博多に於いて厳重な防備体制が構築され、博多は城郭都市として構築された。」(「はじめに」より)
著者略歴- 佐藤 鉄太郎
サトウ・テツタロウ - 九州大学文学部史学科国史学専攻卒業九州大学大学院文学研究科修士課程修了(文学修士)皇学館大学大学院文学研究科より博士(文学)の学位授与(論文博の第一号)題目「蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究」元寇研究会会長主要著書『蒙古襲来絵詞と竹崎季長』(櫂歌書房)『蒙古襲来絵詞と竹崎季長の研究』(錦正社)
はじめに
第一章 鎮西探題の位置、範囲、構造、施設
第二章 鎌倉幕府・鎮西探題が構築した房州堀
第三章 大水道と土居町
第四章 聖福寺之絵図に描かれた博多の東側の堀
第五章 博多の町づくりに鎌倉を投影した鎮西探題
第六章 鎌倉時代に形成されていた博多の都市の復元
第七章 鎌倉時代に成立していた博多の町並、聖福寺関内町
おわりに
(一部抜粋)